桜からのメッセージ
阪神淡路大震災が起きた1995年の暮れのこと。私は「亡くなられた方の数の桜を植えよう」と心に決めました。それはまるで何かに導かれているかのような決断でした。神戸市灘区で第一回目の植樹祭を開催すると全国から沢山の方々がお集まりくださり桜の苗木を一本一本大切にそして祈るように植えて下さいました。2年が過ぎ、3回目の植樹祭の日、一緒に桜を植えてくださった長田区の方が私に声をかけて下さいました。
「私は震災で母を亡くしました。私が駆けつけた時、母は倒壊した家の下敷きになっており、助け出そうにも助けられない状況でした。」
「長田区は火災のひどかった所です。」
「やがて母の家にも火の手が襲いかかりました。すると母は『もう私のことはいい。お前が生きてくれ』と繋いでいた手を振り払ったのです。」
「それが私と母との悲しい別れとなりました。」
「その後私は、なぜあの時母と一緒に死ねなかったのだろうという自責の念に押しつぶされそうになり何度も何度も死のうとしましたが死ねませんでした。」
「しらいさん。先ほど植樹した桜から母の声が聞こえてきたのです!『生きていてくれてありがとう。生きていてくれて本当にありがとう。』懐かしい母の声がはっきりと聞こえてきたのです。だから私はもう迷いません。今日からは母の分まで頑張って生きていきます。」
その方は涙をぬぐい、桜に誓うようにそうおっしゃっいました。私はその時「たとえどんな困難があっても亡くなられた方々の鎮魂のために6500本の桜を植樹し続ける」という思いを改めて強くしました。
その後全国の方々にお力添えいただき、震災から10年の2005年に6500本目の桜を植えることができました。その方との出会いと桜からのメッセージがこの活動をずっと支え続けてくれたのです。

「鎮魂の桜」各地にて植樹活動
2011年には東日本大震災という未曾有の災害が起き約20000人の尊い命を失いました。そして10年を迎える今も約3000人の方が見つかっていません。被災地である気仙沼市大谷海岸では震災後毎年花火を打ち上げております。花火はもともと鎮魂から始まったのだと花火師さんから教えていただいたからです。空高く舞い上がる美しい花火が未だ見つかっていない方々にとって「ふるさとへ帰るための道しるべ」になり、被災した方々にとって「希望の灯り」になるよう願いを込めた花火なのです。今では地元の方々が中心となり『大谷海岸花火祭り』という大きな祭りとなりました。この祭りを通してこの地に息づいていた方々のことを忘れることなく、震災の教訓を伝え続けてゆけたらと思っています。
私は津波が猛威を振るい町も人も沢山の生物も一気に飲み込んでしまうことなど想像もしていませんでした。全く無知でした。東日本大震災が起きてからは人と自然の関わりを再認識しなければ「失わずに済む命を再び失ってしまうことになる」と深く考えるようになりました。
「津波が来たところまでは海」なのかもしれません。自然を悪者にしてしまってはいつまでたっても本当の答えにたどり着けません。自然は私たちにとって大切な遺産であり財産なのです。自然を敬い自然の営みの中で私たちは生かされていることに気づき、そして感謝することで自ずと「人と自然のアウトライン」が生まれてきます。

鎮魂と希望の花火、気仙沼にて
これからも自然災害が絶えることはないでしょう。
その時もうこれ以上大切な命を失わないために、昔の人々の言い伝えやこの苦しみの中で得た教訓を忘れず伝え続けることこそが「災害に備える」ことにつながると感じています。昭和~平成~令和という時代の流れの中で、私たちは本当に数えきれないほどの悲しみを経験してまいりました。しかしそれと同時に、苦しむ人々の悲しみをなんとか少しでも和らげてあげたいという優しい思いが溢れた時代でもあると私は思います。私はこれからも音楽を通して人々と出会い、今まで感じてきたことをお伝えし、共にできることを探し続けたいと思っています。
愛を音に変えて音を愛に変えて。
しらいみちよ

流された大谷海岸駅にてライブ